ラベル 死生観 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 死生観 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年10月29日金曜日

ブックレビュー「ヒトはどうして死ぬのか 死の遺伝子の謎」

「ヒトはどうして死ぬのか 死の遺伝子の謎」
田沼靖一 幻冬舎親書

細胞に存在する「死のプログラム」がアポトーシス。
そのカウンターとなっているテロメア。
そしてもう一つの死のプログラムがアポビオーシス。
人間は必ず死ぬことができるようにこれらがプログラムされている。

著者は、科学者として、死生観が失われている現在を愁い
有限の時間を生きる意味を死の科学から読みとり
新たな死生観を持つことが大切だとも書いています。

この本を読みながら私は
流転という言葉や
般若心経の世界を感じていました。

昔の人たちが肌で感じ、精神を研ぎ澄まして感じた自然の摂理が
今、科学で解き明かされている
その科学の恩恵で、便利な生活を送っている現代の私たちは
自然の摂理を感じることも
「死」と向き合うこともしなくなった……
特に宗教を持たない私たち日本人からは
「死」が遠ざかっているとはよく言われることです。

著者が書いているように
私たちは今、死の科学から新たな死生観を持つ必要があるのかもしれませんね。

どうしたって逃れることのできない「死」
でもその「死」は、実は、未来の人類のためにあり
それを感じる時、死は永遠へとつながる……

この壮大な宇宙観とも言える視点を感じることができる本です。
ぜひ、ご一読を……

2010年10月8日金曜日

乳がん体験者のゴスペル

12月に開催される「乳がん体験者のゴスペル」の練習が始まりました。
久しぶりに見る楽譜と、英語の歌詞に、四苦八苦しています。

初練習に向かう電車内で、ふと「不思議だな」と思いました。
それは、私の人生でゴスペルを歌うなどという選択肢があるなんて
思ってもいない事だったからです。

思ってもいない事は、ゴスペルだけではありません。
乳がんと診断されてから、私の目の前に次々と新しい世界が広がってきました。
病の事を勉強して広がった世界
同じ病の人との出会いを通じて広がった世界
その全てが新鮮で、全てにワクワクしています。

それは、
がんと診断されてから、私自身が
より積極的に生きるようになったから
かもしれません。

2010年7月7日水曜日

終末期医療を考える

私は、今年の5月末までパルシステム・セカンドリーグ公式ブログで「誰でも通る、延命治療、終末期医療」という記事を書いていた。
それがご縁で、小金井東公民館より市民講座「こころをつなぐ看取り」の講師を頼まれた。
厚労省の「終末期医療のプロセスに関するガイドライン」や日本病院協会の「終末期医療に関するガイドライン~よりよい終末期を迎えるために~」を引用し、「自分の受けたい終末期医療のためには、意思表示をしておくことが大切」というところに重点をおいてお話をした。
そして、自分の意思に基づいた終末期医療(終末期緩和医療を含む)を受けて自分らしく人生を全うする姿は、残された人への命のメッセージとなるのではないかという言葉で締めくくった。

私の話の後、ご家族の看取りを経験された方から、いろいろなお話をきくことができた。
そして、そのお話を聞いた参加者から「貴重なお話だった」という感想を聞くことができた。

日常生活から死が遠ざけられた社会で生きてきた私たちは、人の終末期についての知識があまりにも少なすぎる。
だから、終末期医療について考えなければ……とは思っても、なかなか考えることができないのではないだろうか。

いろいろな方の看取りの事例を集めたホームページを作ってみたいな……
この講座を終えて、そう思っている。

2010年6月6日日曜日

がん医療と死生観

All Aboutの「がん」サイト、5月30日付の記事

「自分の死生観を明らかにし、同じ死生観を持った医療人とのコラボレーションが満足行く医療には欠かせない」

という記事が載っている。

がん医療における、新たな治療法や薬の開発はめざましく、余命も伸びている。
ただ、余命ばかりではなく、QOLにも注目する必要があるだろう。
今は、QOLを保ち、日常生活を送りながらがんと共存している人も多い。
しかし、いつか終末期といわれる時期がくる。
その時、どのような医療を受けたいのかを、しっかりと考えておく事も大切だろう。
そして、その事について家族とも、十分話し合っておくことも必要かもしれない。

平成20年の厚労省の、延命治療についての調査では
自分の延命治療を望む人の割合よりも、家族の延命治療を望むという人の割合の方が多かった。

家族には一日でも長く生きていてほしい……という気持ちの現れなのか
または
家族と言えども他人の命を考えることは難しい……という気持ちの現れなのか。

人それぞれに違う死生観。
それぞれに違うからこそ
その死生観を静かに受け入れることも
時には、必要なのかもしれない。